椹木野衣 特別連載
第4回「神なき時代に内省を取り戻すためのアート」

アートにとってもっとも重要な体験のひとつが、作品を通じて自己へと帰っていく内省の契機であることについては、前回書いた通りだ。そして、ベネッセアートサイト直島が展開するアートが、そのような契機を提供するうえで、過去に類例を見ない場所であることについても、改めて強調しておく価値がある。

付け加えておけば、こうした体験は、これまで芸術作品に触れるうえでの決まり文句であった鑑賞、というものとは根本的に違っている。鑑賞と呼ばれるものでは、その価値の所在は芸術作品にあらかじめ内在しており、見る者がそれを引き出すためには、一種の手引きというか、あらかじめ定められた教育的な導きが必要となる。それが必要な機会であることまでは否定しない。けれども同時に、教育的な導きである限り、その体験はどうしても画一的なものとならざるをえない。だが、内省とは教育で得られるものではない。あらかじめ用意された方向性や、ましてや手引きや正解など、まったく存在していない。

だからこの連載では、芸術作品をめぐる体験について、鑑賞ではなく「観光」という言葉をあえて当てている。むろん、ここで言う観光がいわゆるツーリズムでないことについては、すでに書いたとおりだ。繰り返しておけば、それはかつての巡礼に近いものであり、鑑賞や教育とは根源的に異なる次元の体験なのだ。だからこそ私たちは、アートを通じて巡礼/観光(光を観る)の体験を取り戻し、そのことで失われていた内省の契機を取り戻すことができる。

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もっとも、このような意味で巡礼や観光という言葉を使うと、ではそれは宗教に近いものなのか、というふうに思われるかもしれない。もしくは、宗教に代わってアートがその役割を果たすようになったのか、それならアートは現代における神のような存在なのか、と反発を買うかもしれない。しかし、それがまったく逆なのだ。

宗教も、究極的には神とその信仰を通じて、私とはいったい何者なのか、という内省の契機を提供するものであることに違いはない。だが、近代とは神がかつてのような絶対的な力を決定的に失った時代でもある。私たち一人ひとりが内省の機会を失って久しいのも、そのことと無縁ではない。そのことを前提にあえて言えば、現代のアートとは、神なき時代にそれでもなお、人が生きるうえで欠くことができない内省を呼び覚ますための、一種の装置なのだ。装置なのだから、それは宗教でもないし神でもない。人が人の力で物質に働きかけ、試行錯誤の果てに作り出したものだ。

ゆえにそこには一定の制度性がある。制度であるなら当然、宗教のように絶対的なものではなく、それどころか、常にその基盤を問い直す必要がある。宗教と違って、アートにとって批評が欠かせないのは、そのためでもある。信仰において神の批判は許されないことだが、アートにおいてはまったく逆に、絶え間ない批評だけがその制度性をかろうじて担保する。

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ウォルター・デ・マリア「タイム/タイムレス/ノー・タイム」2004(写真:Michael Kellough)

けれども制度である限り、批評もまた硬直すれば権威をまといかねない。そうなれば作品もまた装置ではなく宝物のように内実から変質してしまいかねない。神学や教会に代わって神なき時代に内省を取り戻すためにアートや批評は生まれたのだが、批評家が権威となり、作品が宝物となり、美術館が教会になってしまったのでは、もともこもないのだ。

残念なことに、現代美術の世界においてさえ、いつの間にかそのようなことが起きるようになった。そのこと自体へのアーティストからの批評的な行動として、1960年代という対抗文化の時代にアートの世界で生まれたのが、美術館も美術史も前提としない場所にひとり乗り出し、自力で作り出された、いわゆるランドアート(アースワーク)であった。やがてそれは、美術館という万国共通の普遍性を装った「インターナショナル・スタイル」に代わって、「サイト・スペシフィック」という別の手法を生み出すことになる。

サイト・スペシフィックとは、読んで字のごとく、世界のどこでも当てはまる普遍性という制度の固着を批判し、世界に散らばった場所(サイト)にはひとつとして同じ特性はなく、その場所性に特化し、そこから固有の力(スペシフィック)を引き出すための、新しい方法のことを指す。言い換えれば、サイト・スペシフィックとは、原理的に言って神なき時代にアートが神学化(権威化)してしまうことへの不断の批判から生まれたものであり、神なき時代になお内省を可能にするための、それこそ作品ではなく装置のあり方なのだ。これは辞書的な定義ではないかもしれない。だが、辞書的な定義こそ、アートがもっとも避けなければならないものではなかったか。

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杉本博司「タイム・エクスポーズド」(写真:安斎重男)© Hiroshi Sugimoto

本ウェブサイトのなかの歴史のパートにもあるように、ベネッセアートサイト直島が1996年にそれまでの試行錯誤をバネに大きく転換し、「単に作品を購入して展示するのではなく、アーティストを招いて『直島にしかない作品』を制作してもらい、完成した作品はベネッセハウス内外に永久展示するコミッションワーク形式によるサイト・スペシフィック・ワークへと方針を転換」(同パートより引用)したことの意味は、根本的には以上のような文脈から理解される必要がある。そして、こうした転換を成功させるうえでもっとも大きな鍵となるのが、内省と並んでベネッセアートサイト直島を読み解くうえで大事な概念となる「アートをめぐる新しい公共性」にほかならない。それは一見しては内省とは真逆に思えるかもしれない。だが、そうではないのだ。だからこそ、都市における政治や経済といった力=権威の象徴でもあったかつてのパブリック・アートとは、根本的に異なるものへと通じていく。(次回に続く)

■椹木野衣 特別連載
第1回「美術作品が主役でない初めてのミュージアム」
第2回「自然によって濾過されたアートの体験」
第3回「内省という体験を導き出す光」
・第4回「神なき時代に内省を取り戻すためのアート」
第5回「生きるためのアートの力」

椹木 野衣(さわらぎ のい)
美術評論家。多摩美術大学教授、同芸術人類学研究所所員。1991年に最初の評論集『シミュレーショニズム』を刊行。『後美術論』で第25回吉田秀和賞、『震美術論』で平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞。瀬戸内国際芸術祭ではアーティスト選考アドバイザリー委員を務めた。公益財団法人 福武財団 「アートによる地域振興助成」選考委員長。

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