椹木野衣 特別連載
第1回「美術作品が主役でない初めてのミュージアム」

私が直島へ最初に足を運んだのは、1992年に「ベネッセハウス/直島コンテンポラリーアートミュージアム(現・ベネッセハウス ミュージアム)」ができて間もない頃だった。当時、最初の評論集が出たばかりの私に、施設の運営の方が本を読んで声をかけてくださり(おそらくは電話で。というのも、当時はまだ電子メールも使っていなかったはずだから)、一度見に来てほしいとの依頼を受けたのがきっかけだった。考えてみればもう30年近く前のことになる。この原稿を書くために確かめてみたところ、美術館とホテルが一体となったこの施設がオープンしたのは同じ年の7月のことで、暑かったとも寒かったとも覚えがないので、ちょうど秋口くらいの季節だったのではないかと思う。冒頭で直島に足を運ぶのは初めてと書いたけれども、そもそも私はそのような島が瀬戸内にあることを知らなかったし、島の読み方もよくわかっていなかった。というより、瀬戸内の島に向かうこと自体が生まれて初めてのことだったのだ。アートという縁がなければ、果たして私はのちに瀬戸内に足を踏み入れていただろうか。

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ベネッセハウス ミュージアム(現在) 撮影:山本糾

今なら、ベネッセアートサイト直島が運営するアート関連の施設がある島々へと向かうのに、東京なら羽田から飛行機で高松空港に飛び、そこから高松港を経て思い思いの島を目指すところだけれども、当時は、アートで向かうべきは直島にできたばかりの先のベネッセハウスに限られていた。だから、新幹線で岡山駅を経て、そこからどうやってたどり着いたのかよく覚えていないが、かなり離れたところにある瀬戸内に面した宇野港から船に乗り、ようやくのことで直島港(本村港)ターミナルへの航路に着いた時には正直、ほっとした。とはいえ、その後の盛況を思うと信じられないかもしれないけれども、今とは違って、アートを目的に直島に渡る客など皆無で、案内やランドマークなどもまったくなく、本当にそのような離島で最新のアートに触れることができるのか、半信半疑だったのを覚えている。

だが、本村港に着いたら着いたで、そこからの道のりがまだ残されていた。位置的には宮浦港のほうがずっと近いのだけれども、本村港からだとかなりの距離があって、しかも曲がりくねってのぼり下りもある島の道を、港からほぼ反対側に位置するベネッセハウスにまで向かうのに、さてどうしたのだったか。これまたよく覚えていない。タクシーか、もしくは迎えの車で港まで来てもらっていたのかもしれない。とにかく、このようにして私は様々な手段をリレーしながら東京から直島で最初のアート施設にやってきた。

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開館当時のベネッセハウス

そこでまず、私はなにを置いても目標のミュージアムへと向かった。展示室にはモダン・アートの銘品が掛けられ(そのなかには目にするのに程よい大きさのジャクソン・ポロックやサム・フランシス、そして国吉康雄の絵があった)、大きなホールには確かネオン管を使ったブルース・ナウマンの巨大なインスタレーションが置かれていて、本当にここが瀬戸内の離島なのか目を疑った。もっとも、目を疑ったのはコレクションだけが理由ではない。人がいない。私の他に誰もいないのだ。これほど贅沢な空間を、完全に独り占めである。そしてその状態は、一夜明けてベネッセハウスを去る時まで続いた。きっと、オープンして間もないこともあったのだろう。ほかに宿泊客自体が見当たらなかった。

ブルース・ナウマン「100生きて死ね」
ブルース・ナウマン「100生きて死ね」1984年

近くに食堂やレストランはあるわけではないから、もちろん食事は施設の中でとる。たいへん美味だったのは言うまでもないけれども、そのことを話す相手もいない。というより、周囲に誰もいない。食事を終えて部屋に戻る頃には、もうすっかり陽が陰り、夜のとばりが下りていた。が、驚いたことに部屋にはテレビもなかった。もちろん、世にネットが普及するにはまだ数年の時を要したし、ましてスマホやSNSなど想像だにしなかった頃のことだ。しかも、ここは大方の人知れぬ海に囲まれた離島なのだ。完全な孤独である。聞こえてくるのは、窓の外からかすかに伝わる風の音と、間近に広がる海のさざなみだけだ。

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ベネッセハウスの夜景(開館当時)

しかし、寂しかったかと言われると、そういうことではなかった。ちょうど音楽家のジョン・ケージが無音の楽曲「4分33秒」を通じて、完全なる静寂ではなく、内なる心臓音や環境の発する音へと耳を開くことへと誘ったように、私はその時、その場を通じて、自分がこの世界に存在しているのだという実感を、確かに持った。ジョン・ケージが影響を受けた禅の体験にも、それは確かによく似ていた。はっきりしているのは、東京のような都会では、到底味わうことのできない感覚だったということだ。窓から見える移りゆく瀬戸内の景色や、そこに屋内から華を添える美術作品は、そのような体感を呼び覚ましてくれる引き金のような役割を果たしていた。私が到着してすぐに展示を観に行ったのは、都会での日頃の習慣からそうしたのだったけれども、実は、それとはまったく違う美術の体験が準備されていたのだ。

私は、直島へのこの初めての訪問を通じて、美術作品が主役ではない初めてのミュージアムと出会った気がした。それは果たして、オープンして間もなかったから起きた偶然の産物だったのだろうか。そうではないだろう。このような感覚こそ、のちにベネッセアートサイト直島が、島の生活や自然景観と一体化しながら実現していく数々の美術館や作品の芯に、揺るぎない雛形としてあるものだと思う。後にどんなに観光で賑わうことがあっても、その根底には、まちがいなくこの感覚がしっかりと刻まれている。(次回に続く)

■椹木野衣 特別連載
・第1回「美術作品が主役でない初めてのミュージアム」
第2回「自然によって濾過されたアートの体験」
第3回「内省という体験を導き出す光」

椹木 野衣(さわらぎ のい)
美術評論家。多摩美術大学教授、同芸術人類学研究所所員。1991年に最初の評論集『シミュレーショニズム』を刊行。『後美術論』で第25回吉田秀和賞、『震美術論』で平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞。瀬戸内国際芸術祭ではアーティスト選考アドバイザリー委員を務める。

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