椹木野衣 特別連載
第5回「生きるためのアートの力」
コロナ・パンデミックがなかなか収束しない。今後、状況がどのように推移するかについても、予断を許さないものがある。一時は盛んに語られた「ポスト・コロナ」「ウィズ・コロナ」といった標語も、最近はとんと聞かなくなった。「新しい生活様式」についても同様だ。逆に言えば、これらの言葉の意味するところが、あえて言うまでもない常態となり、ことさらに強調する必要がなくなったということでもあるだろう。ということはつまり、コロナが去るか消滅するかに関わらず、現在の生活の様式が、今後もある程度以上に定着し、ずっと続いていくということかもしれない。
少なくとも私たちは、以前のように大勢で集まって騒いだりすることには懸念を抱くようになるはずだ。食事の席も、おのずと規模が小さくなり、会話も大声を控えるようになるだろう。また、日頃からマスクを着用したり、入室時に体温を測ったり、手指を消毒する習慣は、感染の有無とはまた別に暮らしへと確実に定着するだろう。もう、私たちは人体からの飛沫の拡散や、ウイルスが次々に変異し未知の感染能力を獲得することを知ってしまった。新型コロナウイルスが仮に消滅するか、そうでなくても「風邪」程度のものになっていくとしても、また別種のウイルスがいつ地球を覆い尽くさないとも限らない。また、いま風邪と言ったが、コロナの感染症も一種の「風邪」であることに違いはないのだ。逆に言えば、数年前までそれほど猛威を奮ったインフルエンザでさえ、マスクと手洗い、手指の消毒、そして会食機会の制限によって、ほとんど抑え込めることが実証されつつある。誰でも風邪になど好き好んでかかりたくない。未知のウイルスなら、なおさらだろう。こうして「かつての生活様式」は次第に忘れられ、「新しい生活様式」は「普通の生活様式」になっていく。世代が移れば、このことはよりはっきりするだろう。やがて、「かつての生活様式」を知らない世代が登場するのも、そう遠い話ではないかもしれない。
こうしたなかで、アートの持つ意味も確実に変わっていく。というよりも、変わっていかざるをえない。1990年代以降のアートをグローバリズムと「芸術祭」の時代と総括することに大きな異論はないだろうが、その両者に今後、大幅な制限がかかるのは、容易に想像がつく。とりわけ、この時代のアートが最大の魅力のひとつとしてきた「祝祭」性は、大幅に制限されることになるだろう。もしかしたら「芸術祭」という名称自体が使われなくなる可能性だってないとは言えない。その意味でも、この連載で繰り返し触れてきたように、「祝祭」よりも「巡礼」の意味が大きくなっていくことになるはずだ。
では、「祝祭」と「巡礼」とは違いはなんだろうか。端的に言ってそれは、祝祭が集団性を前提とするのに対し、巡礼は個別個人の体験へと還元されることにある。やはりこの連載で使ってきた言葉で言えば、「内省」というのがそれにあたる。しかし、そもそもがアートに祝祭性というのはあまり似つかわしいものではない。大勢の人がひととき、ひとところに集まって、同じ体験を熱狂的に共有する、というのが祝祭性であるとしたら、それはアートが本来備えている「内なる自己」への旅とは真逆のもののはずだからだ。
しかし他方で、グローバリズム下では、一度に多くの人を迅速に束ね、同じ体験を共有することが、ことのほか重要とされてきた。アートにしても例外ではない。グローバリズムとは資本主義による営利を目的とする効率がなによりも優先される世界である。そして逆に言えばそれが、民主主義的な機会の公平と平等を担保する「公共性」とすり替えられてきたきらいさえある。むろん、アートにも民主主義的な公共性が必要なことは言うまでもない。だが、現在進行中のパンデミックから私たちが学ぶところがあるとしたら、なにより、この公共性についての概念を考え直す機会としなければならない。だが、アートが本源的に持つ内省性とは、それこそパブリックなものではなく、そこに回収されないような個別性を持つものなのではなかったか。だが、実はそれが違うのだ。
ベネッセアートサイト直島で私たちが出会うアートが、かつての「鑑賞」でもなく、90年代に盛んとなった「パブリック・アート」とも違い、「サイト・スペシフィック」であるということについては、すでに前回で触れている。だが、サイト・スペシフィックであるということは、単に「スペシフィック=個別」ということではない。これは決して誤解してはならないことだ。まったく反対に、「サイト・スペシフィック」であるということは、同一の「サイト」に深く沈潜することを意味する。もっと具体的に言えば、世界中のほかどこにもない、どこでもない「ここ」を共有し、そこに「スペシフィック」に没入することこそが「サイト・シペシフィック」の本当の意味なのだ。ところがこれまで、私たちはこの語を使うとき、暗黙のうちに「スペシフィック」の方に強調点を置いてなかったか。だが、「スペシフィック」であることが成り立つのは、言い換えれば到来者による個別の内省が可能になるのは、ひとつの「サイト」を共有することができるからにほかならない。
しかも、それはなにも目新しいことではないのだ。祝祭が古来からあるように、巡礼も古来より存在した。そして、前者が「アート・フェスティヴァル」へと受け継がれたとしたら、後者こそが「サイト・スペシフィック」なアートへと継承されたと言えるだろう。つまり、サイト・スペシフィックなアートの体験とは、この意味でも巡礼的と言うことができる。そして、巡礼とは決して個別で私的な体験ではない。それは、自分よりも大きなものを共に目指し、辿り着くことで、自分の内なる世界を開示する、その意味での別の公共性を帯びている。単に同じ体験を共有するというのが公共性ということではない。そうではなく、「ひとつひとつ」の異なる体験が、「ひとつ」の「サイト」を通じて引き出されてこそ、真の意味での公共性となりうるのだ。
その意味で、ベネッセアートサイト直島は、それこそ「サイト」として、つねに「そこ」に存在する。そこからどのような「あなた(=スペシフィック)」が引き出されるかは、それこそあなた次第なのだ。こうした体験は、今後、世界がどんなに未知の試練に立たされても、いやそうなれればいっそう、娯楽や観光や教養ではなく、文字通り、生きるためのアートの力を、自己の内から引き出すきっかけとなり続けるだろう。(連載 完)
■椹木野衣 特別連載
・第1回「美術作品が主役でない初めてのミュージアム」
・第2回「自然によって濾過されたアートの体験」
・第3回「内省という体験を導き出す光」
・第4回「神なき時代に内省を取り戻すためのアート」
・第5回「生きるためのアートの力」
椹木 野衣さわらぎ のい
美術評論家。多摩美術大学教授、同芸術人類学研究所所員。1991年に最初の評論集『シミュレーショニズム』を刊行。『後美術論』で第25回吉田秀和賞、『震美術論』で平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞。瀬戸内国際芸術祭ではアーティスト選考アドバイザリー委員を務める。公益財団法人 福武財団 「アートによる地域振興助成」助成選考委員長。
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