椹木野衣 特別連載
第3回「内省という体験を導き出す光」

これまでの2回の連載を通じて、私はアートと呼ばれるものにとってもっとも意義ある体験のひとつは、自己の内なる世界への省察としての「内省」であり、作品とは、そうした行為を触発するための優れた媒介なのだ、ということを述べた。そして、ベネッセアートサイト直島は当初から、そのことにしっかりと根差して出発したということを、コロナ禍の今だからこそ振り返り、改めて認識する機会に私たちはいる、と書いた。

それはなぜだろう。2000年代に入る頃から急激に盛んとなる観光の加熱によって、芸術の鑑賞機会と旅行が切り離し難く結びつき、国内での国際芸術祭の活性化や、目標としてのインバウンドという言葉が普及するにつれ、ベネッセアートサイト直島も、そうした観光と芸術を一体のものと考える事業の先駆けのように捉えられるようになったからだ。

しかし、仮にそうした成功のモデルになりうる結果をいち早く導き出していたとしても、それはベネッセアートサイト直島がポテンシャルとして備えていた可能性のひとつが開花したのであって、すべてがそこに集約されるものではない。それどころか、ベネッセアートサイト直島の原点にある個々人の内省への回帰は、観光=芸術の先駆けとしての条件を備えつつ、根本的にはこれと矛盾する性質を持つものだった。

どういうことか。大切なことなのでこれを機に一度、整理をしながら考えてみることにしたい。

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撮影:田中まこと

美術体験を成り立たせるために、作品が必要となるのは言うまでもない。言うまでもないようなことだけれども、最初からそれが当たり前だったわけではない。美術という言葉さえ存在しなかった近代以前の日本では、そもそも文化財という考え方がなかった。のちに絵画や彫刻と定義されるようになる文物は、鑑賞ということ以前に、信仰や風習、娯楽と切り離し難く結びついていて、それこそ観光と芸術は一体のものだった。

お伊勢参りや善光寺詣でが庶民の憧れであったように、まれな遠出の目的は、そこに至るまでの過程としての旅や食、その間に生まれる人との出会いと渾然一体のものだった。だが、それだけなら現在、私たちが「観光」と呼んでいるものとさしたる違いはない。最大の違いがあるとしたら、かつての観光には「巡礼」の意味があったということが大きい。言い換えれば、今日の観光には娯楽の要素は盛り沢山でも、究極的には巡礼の要素がない。

だが、巡礼なき観光は元来、観光ではないはずなのだ。というのも、観光とは文字に書いて「光」を「観」ると書くとおり、体験として目指されているのは、実はなにがしかの「光」にたどり着くことにある。むろん物理的な意味ではない。みずからの内なる光であり、自分が何者で何をしてきたか、これから何をすべきかについて振り返る、内省の機会にほかならない。近代以前の観光がなんらかのかたちで信仰を呼び覚まし、寺社という聖地と深く結びついていたのには、そうした理由がある。

しかし近代以降、信仰や聖地といった概念は、欧米と比べ、文明として遅れた段階にある清算されるべきものとして位置付けられるようになった。だが一方で、近代化とは国土の一体化を効率よく進め、権力による統轄のため首尾よく整備することでもあったから、道路や鉄道は全国の津々浦々まで張り巡らされた。同時に、労働と娯楽も別概念として整理されたため、労働する時間とは別に休息のための余暇が必要となり、時間を埋める生の過ごし方として、観光という概念が自立するようになった。

しかしそうだとしたら、もはや観光にとって核心にあったはずの「光」は、むしろ邪魔者となる。冗談のように聞こえるかもしれないが、人が光に巡り合ってしまったら、労働の必要性を実感できなくなり、国家や統治者にとっては実に都合が悪いことになる。こうして「光なき観光」が商業の一形態としての旅行の萌芽と結びつき、次第に産業としての体裁を取るようになったことについては、ここで詳細を記す余裕はない。肝心なのは、このような光なき観光のほうが、資本主義――とりわけヒト、モノ、カネを摩擦なく流通させることで利益を得る、ひたすら効率を追求するグローバル資本主義と大変相性がよいということだ。

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撮影:大沢誠一

先に触れた21世紀に入る頃からひとつの成功モデルとして考えられるようになった、インバウンドを原動力とする芸術祭=地域アートの隆盛は、実はこのような光なき観光、別の言い方をすれば「巡礼を失った観光」が生み出した、様々なバリエーションであるにすぎない。

ベネッセアートサイト直島が原点に据えていた「内省」は、実はこのようなグローバル資本化における光なき観光、巡礼を失った観光に対し、光を回復し、巡礼を取り戻し、そのことで「観光」を本来の観光へと位置付け直す意味を持っていた。だからこそ私たちは、コロナ禍のいまだからこそ、ベネッセアートサイトの原点に立ち戻り、その意義を再確認する必要があるのだ。

ベネッセアートサイト直島が、かつての信仰や娯楽に代わり、観光にとっての光であり、巡礼の体験を触発するきっかけとして見直したのが、アートにほかならなかった。ベネッセアートサイト直島にとって作品とは、だから自立した近代的概念としての「作品」ではない。それは内省という体験を導き出す光であり、内なる心への巡礼のための媒介なのだ。ベネッセアートサイト直島で「美術館」や「作品」と呼ばれているものが、国家や制度によって整頓された概念としての美術館や作品からは大きくかけ離れているように感じられるのは、この光の回復のためのダイナミックな所作が、当初から盛り込まれていたからにほかならない。(次回に続く)

地中美術館
地中美術館 撮影:大沢誠一

■椹木野衣 特別連載
第1回「美術作品が主役でない初めてのミュージアム」
第2回「自然によって濾過されたアートの体験」
・第3回「内省という体験を導き出す光」
第4回「神なき時代に内省を取り戻すためのアート」
第5回「生きるためのアートの力」

椹木 野衣(さわらぎ のい)
美術評論家。多摩美術大学教授、同芸術人類学研究所所員。1991年に最初の評論集『シミュレーショニズム』を刊行。『後美術論』で第25回吉田秀和賞、『震美術論』で平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞。瀬戸内国際芸術祭ではアーティスト選考アドバイザリー委員を務める。公益財団法人 福武財団 「アートによる地域振興助成」選考委員長。

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