小沢剛 前編「アートは現代社会を生きることにどう関われるのか?」
小沢剛の恒久設置作品は讃岐にあり
小沢剛は、事実とフィクション、ユーモアを交えながら独自の視点で歴史や社会を鋭く批評する作品を通して国内外で広く活躍している。
だが、いわゆる彫刻や絵画といったオーソドックスなメディアに限定されない多様かつ複雑な作風からか、その作品を美術館や芸術祭といった展覧会以外の場所で見る機会はあまり多くはない。
しかし、その小沢の恒久展示が香川県には二か所も存在する。ひとつは、弘法大師空海出生の地に近い坂出で寛政元年(1789年)から醤油づくりを営む鎌田醤油本社敷地内にある《讃岐醤油画資料館》、そしてもうひとつは、2006年に直島で当初展覧会のために制作設置され、ベネッセハウス30年の節目にあたる2022年に、ヴァレーギャラリーの一部として新たに整備された《スラグブッダ88-豊島の産業廃棄物処理後のスラグで作られた88体の仏》である。
後者は、小沢が学生時代に各地を旅しながら、風景の中に自作の地蔵を建立し写真に収めた卒業制作かつ作家デビュー作で、いわば小沢の作家活動の原点とも言える「地蔵建立」の流れにある。
四国八十八箇所を模して、江戸時代に直島に作られた88か所の仏像をモチーフに、豊島で不法投棄された産業廃棄物を焼却処理した後に最終的に生じたもの(スラグ)を用いて、地元の陶芸家や学生たちとともに作り上げた本作。
この作品をはじめ、小沢の創作では、常に旅やドメスティックな土地の過去と現在についてのリサーチ、日常の風景のなかで忘れられつつあるどこかノスタルジックな存在、地域で独自に発展したもの、純粋美術と民衆芸術など美術と美術でないものとの関係、個人と他者、集団の間といったキーワードが見え隠れする。いったいそれらはどのように発展し、どこへ向かおうとしているのだろうか―。
旅・日記・ローカルな風景、人々の営みに寄り添う静かな眼差し~地蔵建立へ
小沢剛は、東京オリンピックの翌年の1965年、家庭にテレビなどの家電が浸透し社会が徐々に豊かになりつつある高度経済成長期に埼玉に生まれ東京郊外の団地で育った。
昔ながらの里山と開発が進む団地の風景が混在する、まさにアニメ《平成狸合戦ぽんぽこ》の舞台のようなところで育ち、スタジオジブリのアニメに描かれる風景は自らの原風景のようにどこか懐かしさを感じさせるものだと言う。
漫画家に憧れてはいたが、ストーリーが作れないため、絵の方向性を目指して東京藝術大学絵画科に進学。バブル真只中の学生時代に、たまたま目にしたパリのポンピドゥーセンターで1986年に開催された「前衛芸術の日本1910-1970」展の図録で、日本の前衛芸術が海外の美術館で展示されたことを知る。
それまで海外から輸入されるものが新しいと思っていた小沢は、そこから「新しさとは何か」ということを考えるとともに、世界に目を向けるようになり、アングラ演劇に熱を上げつつも、アルバイトをして暇さえあれば、『地球の歩き方』を片手にバックパッカーで海外旅行に出かけるようになった。
また、社会の浮ついた空気に反して、『白黒』という雑誌を友人たちと制作。既にこの頃から、小沢の制作の鍵となる「一人旅」と「集団での創作」という両極の関心が見て取れる。
当時、絵を描くことに挫折していた小沢は、担任だった現代アーティストの榎倉康二から日記をつけるよう助言され、文章の代わりに、フィルムカメラを使って毎日写真を撮り始める。この日記と旅、そして江戸時代に各地を遊行して数多くの木彫仏を残した円空への憧れが重なり作品化されていったのが、「地蔵建立」シリーズである。
現像のプロセスが絵作りに似ていると写真に興味を持った小沢は、夕方の暗闇になる直前のトワイライトの光を描くかのように、撮影された写真をブルートナーで青色に染めていった。小沢にとって、青色はどこか癒しを感じさせ、また、視力の落ちる黄昏どきは、一日のうちで最も想像力が備わる時間帯に思えたという。
そして、戒厳令下の天安門広場や朝鮮半島を南北に隔てる板門店、テヘラン、チベット、モスクワ、九龍城砦(香港)からオウム真理教の教団施設があった上九一色村まで...各地の風景のなかに、小さな地蔵のオブジェや紙にドローイングしたものを忍ばせて撮影していった。
当初は風景の中に自分の傷跡・痕跡を残そうと、いたずらのようなものから始まったが、継続するうちに、どんな場所でも日常の風景がその夕方の光に包まれるとき、等しく美しくなる可能性があると思うようになっていったという。
円空からインスピレーションを受けた地蔵というモチーフは、人々の生を静かに見守るとともに救済の可能性と分かち難くあるのだ。
個と集団の間で
こうした孤独な旅の作品の一方で1990年には、描きかけの絵を人々に見せて、他者の意見をもとに加筆修正していく「相談芸術」を開始する。
個人の考えだけを作品に託す、解釈の幅のない「俺様アート」に嫌気がさして始めたという、全て他人任せの作品で、伝言ゲームのように、様々な人に相談しながら作品が出来ていく。ここでは、作品の完成形よりも、自分と他者の間に絵があり会話が成り立つところが面白いと思ったという。
この自我や主体性から脱する試みは、《相談芸術大学》というワークショップや《相談芸術カフェ》など様々な形で展開されていった。
また、1993年にはもうひとつの初期の代表作である「なすび画廊」を、「ザ・ギンブラート」という銀座界隈の路上でアーティストたちが一日だけゲリラ的に展示を行った企画の一環で始めている。
当時、銀座のギャラリーといえば多くは貸画廊、あるいは骨董品の画廊で、本当にデビュー出来るかもわからないのに、大枚をはたいて展覧会をすることに疑問を感じていた小沢は、オルタナティブで事件性のある方法として、有名な貸画廊であるなびす画廊の真ん前の路上で牛乳箱の中を展示空間とする。
銀座の一等地で経費をかけずに毎月一人の無名アーティストに展示してもらう、世界最小の画廊空間というラディカルなものであったが、数か月程度で警察が来て銀座での継続は不可能となる。(以降、流浪の画廊として場所を移動した後、展覧会等に招かれるようになる)
しかし、貸画廊という日本独自の制度に問いを投げかけ、新しい空間の使い方や、土地や建物がなくてもアートが成立することを示すことになった。
グループでの活動としては、92年に再現芸術集団「スモール・ビレッジ・センター」の活動に参加。1960年代のハイレッド・センターならぬ、小沢剛、村上隆、中村政人の名字から小(スモール)、村(ビレッジ)、中(センター)を組み合わせた名前に明らかなように、戦後の美術の流れ、特にパフォーマンスについて知らなさすぎるため、テキストで読む知識だけでなく再現して検証しようという村上の提案により、大阪など各地でパフォーマンス再現を試みた。
この活動は短期で終了したが、94年には、同じ昭和40年生まれのアーティストや音楽家ら(現メンバーは、小沢のほか、会田誠、大岩オスカール、パルコキノシタ、松蔭浩之、有馬純寿)が集まって昭和40年会を結成。
本グループは、それぞれ作風が大きくかけ離れていることもあり、あくまでも個人の集合体で作品の協働制作などはあまりしないが、時にグループ展を行うなどしつつ、現在も緩やかに活動を継続している。
よくある美術家団体のパロディとか、その後のより若い世代のアーティストコレクティブ活動への影響を指摘する声もあるが、この団体の最大の特徴は彼らが育った高度成長期の日本という時代社会をテーマにしていることだろう。
さて、冒頭の「醤油画資料館」は、20世紀の終わりにあたり、美術を通して日本を振り返るという主旨で発想されたものである。
90年代以降アジアへの関心が高まり、1999年に福岡にアジアの近現代作品を専門的に扱う福岡アジア美術館が発足し、その開館記念の「第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999」に出品された。
日本人の視点で捉えるのに最もしっくりくるものとして、醤油で描かれた古代から戦後の前衛芸術に至る名画の数々は、明治以降、海外から輸入された美術の概念や技法を受容することになった日本の美術史体系の在りように対する批評的な問いである。また、昔のアーティストたちの筆をなぞることは、彼らがどう作っていったのかを追体験し、彼らの視点を作品に介在させることでもあった。(後編「負の歴史を新たな議論へ、負の環境をポジティブなフィールドへ」に続く)
本稿は基本的に本人からの聴き取り等を元に構成。
その他参考文献:
『小沢剛世界の歩き方』(有)イッシプレス、オオタファインアーツ、2001年
「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」展図録、千葉市美術館、2018年
「小沢剛展 オールリターン 百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」ブックレット、弘前れんが倉庫美術館、2020年
三木あき子みき あきこ
キュレーター、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パリのパレ・ド・トーキョーのチーフ/シニア・キュレーターやヨコハマトリエンナーレのコ・ディレクターなどを歴任。90年代より、ロンドンのバービカンアートギャラリー、台北市立美術館、ソウル国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館など国内外の主要美術館で、荒木経惟や村上隆、杉本博司ら日本を代表するアーティストの大規模な個展など多くの企画を手掛ける。
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