小沢剛 後編「負の歴史を新たな議論へ、負の環境をポジティブなフィールドへ」
「9.11」、「3.11」を経て
21世紀に入り小沢が着手した新シリーズ「ベジタブル・ウェポン」は、冷戦終結後、かすかな平和への予感を感じさせた90年代の作品とは大きくトーンが異なる。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ直後に小沢のアメリカ行きがあったこともあり、旅や出会い、協働といったそれまでの制作法は踏襲しつつも、事件の影を色濃く反映して、戦うことの無意味さや平和への願いがより直接的なメッセージとなっている。
アジアの国々からアメリカ、欧州、アフリカ大陸など各地で出会った女性モデルが選んだ家庭料理の具材で銃を作り撮影した後、銃を解体・調理してプロジェクト参加者全員で食べるという一連のプロセスは、戦闘から対話へ、銃から食へという芸術を通した武装解除の試みであった。
さらに、小沢の創作に大きな影響を与えたのは、2011年の東日本大震災である。
架空の共同体プロジェクトとさらなる対話・交流・協働
小沢は、震災直後に、以前、展覧会に呼んでくれた福島の美術館学芸員に、何か自分に出来ることはないかと尋ねたことを契機に福島の人々とともに様々な対話や交流をしながら1年かけて一連の「ベジタブル・ウェポン」のプロジェクトを実施することになったが、その体験は、震災後、しばらくモノづくりが出来なかった小沢が、なんとか生き抜くことを可能にしてくれたものでもあったようだ。
2000年代以降、グループ活動もまたそれまでとは異なる展開となる。
2004年からは、小沢の声掛けで韓国のギムホンソック、中国のチェン・シャオションとのユニットである「西京人」の活動を開始。90年代の活動に特徴的な風刺やシニカルな笑い、ナンセンスさは残しつつ、デリケートな関係にある東アジア3国の作家3人で共に作品を制作するという、ユートピア的共同体の理想と現実の複雑さの中に敢えて挑むチャレンジングなプロジェクトだ。
その背景には、まさに90年代中盤からグローバル化が進み各国でビエンナーレやトリエンナーレといった大規模な国際展が開催されるようになり、欧米のキュレーターたちもアジアのアートに関心を持つようになっていった状況がある。
これらの国際展を通してアーティスト同士の交流が増えたことで、以前のような傍観者ではなく、地域によって異なる時代感覚や歴史観、文化の差異を意識しつつ、対話や交流、協働といったより多層的な制作プロセスに挑んで行くこととなった。
複雑な課題への芸術を介した新たなアプローチの模索
こうして、旅、歴史、他者の視点に、社会への直接的な関与やアジアとの関係、国の枠組みを超えた協働や文化間のずれが加わり、さらに映像、絵画、音楽などを組み合わせた総合芸術的形態へと発展させたのが、2005年に始まった「帰って来た」シリーズである。
グローバルに活躍した近現代の人物をベースに、事実と虚構を交えた「想像上の人物」の物語を発展させ、多様なメディアで構成される本シリーズは、2013年にアフリカ開発会議に関連する展覧会のために、野口英世を題材にガーナと福島を繋ぐ形で制作された《帰って来たDr. N》(以下、シリーズ名を省略)から始まる。
そして、戦後70年にあたる2015年には藤田嗣治とインドネシアを大胆に結びつつ《ペインターF》が、その翌年のさいたまトリエンナーレではジョン・レノンを題材に埼玉とフィリピンの関わりで《J.L.》、2017年のヨコハマトリエンナーレでは横浜生まれの岡倉覚三(天心)のインドへの足跡を追う形で《K.T.O.》が、そして2020年には弘前生まれの寺山修司とイランの関係を元に《S.T.》が生み出された。
2020年、新たに発足した弘前れんが倉庫美術館で筆者が企画したこれら全5作を概観した個展「オールリターン 百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」の準備の際、小沢はこのように語っていた。
「『帰って来た』とは、遠くの地に暮らす人たちとしっかりと関係性を結び、自分が深く関わる文化と他者の文化の接点を全力で見つめ合い、美術史や西洋的なアカデミック体系の物差しを経由せずに、当事者同士で築いた双方向の関係性でつくり上げる行為だ」
それは、かつて道なき道を模索し切り拓いていった先人たちに敬意を払いつつ、あまり知られていない人間味溢れる、悩みや不完全さを内包する個人の生に眼を向け、架空の人物という第三者の視点を借りて、歴史を異なる見方で捉え、戦争や原発問題、発展の失敗といった負の歴史ともいわれる複雑な問題への芸術を介した新たなアプローチを生み出そうとする試みであった。
地蔵からヤギへ
そしてコロナ禍の2020年末、小沢は、今度は人間ではなく、ヤギの視点で人間社会を見つめるべく、2匹のヤギを自身が教鞭をとる茨木県取手市の東京藝術大学のキャンパスに迎い入れた。
この「ヤギの目」プロジェクトでは、学生や教員、地域住民らといった様々な世代・分野の人々が関わり、順番でヤギたちの世話をし、キャンパス内の放置林から切り出した木や竹を用いて、小屋や柵などが作られている。
古くから人間との関わりがあり、糞や乳が有用で自然界の循環とも深く関わるヤギとの暮らしを通して学生たちは多様な表現を模索し、コロナ禍でも持続可能な研究・創作・表現活動の場をつくり続けるとともに、次世代のコミュニティの在り方を考察するという、ヤギを媒介として、人が生きていくこととアートとの繋がりを探る試みである。
その発想の元には、震災直後で各地に放射能のホットスポットの噂があったり、また、小沢が教授として取手キャンパスに赴任した際、様々な理由で多くの授業が上野に移り学生数も減り、キャンパス内も雑草だらけという殺伐とした様子にショックを受けたことがあるという。
高度成長期に開発された都心通勤者のための郊外のベッドタウンは、自身が育った子供時代の現場と重なり、自らの原点や自身が生きる負の環境をひっくり返せないか、荒廃した郊外や里山の活性化に対して何か出来ないかという思いを抱いたという。
人々の日常の営みをひっそりと見守る地蔵からヤギの目へ――。明治以降、西洋から輸入された人間中心で強固な自我に基づくアートの在りようとは異なる、多様な他者の視点を想像力で創作に取り込むことで、負の歴史を新たな議論へ、負の環境をポジティブなフィールドへと転換させるべく、小沢は日々アートが現代社会を生きることにどう関われるかを考え続けているのである。
本稿は基本的に本人からの聴き取り等を元に構成。
その他参考文献:
『小沢剛世界の歩き方』(有)イッシプレス、オオタファインアーツ、2001年
「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」展図録、千葉市美術館、2018年
「小沢剛展 オールリターン 百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」ブックレット、弘前れんが倉庫美術館、2020年
三木あき子みき あきこ
キュレーター、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パリのパレ・ド・トーキョーのチーフ/シニア・キュレーターやヨコハマトリエンナーレのコ・ディレクターなどを歴任。90年代より、ロンドンのバービカンアートギャラリー、台北市立美術館、ソウル国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館など国内外の主要美術館で、荒木経惟や村上隆、杉本博司ら日本を代表するアーティストの大規模な個展など多くの企画を手掛ける。
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