直島会議2025
《マルコ・ポーロの忘れ物》から
直島新美術館へーアジア現代アート
と1995-2025
直島会議2025
《マルコ・ポーロの忘れ物》から
直島新美術館へーアジア現代アート
と1995-2025
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6. ディスカッション モデレーター:帆足亜紀
ディスカッション モデレーター:帆足亜紀
帆足亜紀(以下:帆足):
モデレーターを務めます帆足亜紀と申します。三木さんからは直島のこれまでの経緯、沿革、そして今現在どういうところに位置するのかということをお話しいただきました。アピナンさんからは、ご自身のキャリアの中で、特に最近手掛けられたバンコク・アート・ビエンナーレのお話を中心に、観客とコミュニティとの関係についてお話がありました。また、スハーニャさんはオーストラリアにおけるアジア太平洋の地域との協働から始まった美術館づくり、そして現在は、M+という香港を拠点にした美術館でアジアを中心にしながら世界と向き合っている美術館の活動というお話をされました。
皆さん、現在のお話を中心にしてくださいましたが、これからは過去30年間を振り返りながら、アジア各地で美術がどのように発展してきたかというお話ができればと思います。アピナンさん、バンコク・アート・ビエンナーレに100万人の来場者があったということですが、90年代のオーディエンスはどういう状況でしたか?実は私は20数年前にアピナンさんがいらっしゃったチュラロンコン大学の展覧会を見にいきました。その当時、100万人のような観客が、公共の場所でアート作品を見るという風景は、まだバンコクにはなかったように思います。その頃から今に至るまで、どのような変化があったのか、もしくは、アピナンさんがどのようにして100万人の観客達成を実現できたのかをお伺いできればと思います。
ポーサヤーナン:
私たちもずいぶん長い付き合いになりますね。私が大学で教えていた当時は、ニューヨーク州イサカにあるコーネル大学で博士号を取り終えて帰国したばかりでした。展覧会を企画した経験は少しありましたが、それを「キュレーション」と呼ぶには少し違和感があります。なぜなら当時は「キュレーター」という役割自体がほとんど知られていなかったからです。「キュレーター」という言葉は、博物館で工芸品などを扱う職種としては通じましたが、現代美術の文脈ではあまり使われていなかったのです。私に任されたのは、チュラロンコン大学の中央図書館の7階にあるスペースで美術作品を展示することでした。その空間はライブラリーというより「アート・ラボ」のような実験的な場でした。というのも、数年前に美術・応用芸術学部を新設したばかりで、現代アートの教育とはどういうことなのか、説得力はあるか、なおかつ興味深いものにするにはどうすればよいのか、ということが課題だったのです。チュラロンコン大学という保守的な大学の文脈の中で、人々にわざわざ上の階まで来てもらって作品を見てもらうということは簡単ではありませんでした。最初に展示したのは正直に言えば少し退屈な作品でした――人生にはそういうこともあります。しかし、実験を重ねるうちに、若い美術教員や若手アーティストたちの中に大きな可能性があると感じるようになりました。やがてその空間はアーティストたちの創造性を発奮させる場となったのです。年間予算があったわけではありませんが、彼らをサポートし、観客は無料で観覧することができました。
私が東京を訪れた際、原美術館の原俊夫さんが荒木経惟さんとひきあわせてくださいました。ご承知の通り、原さんは日本美術界を支える重要なパトロンのひとりです。私たちは荒木さんをバンコクに招き、プロジェクトと作品展示を依頼しました。アシスタントと一緒にバンコクに来られた荒木さんを私たちはカメラをもって案内し、制作の記録を撮り、作品を展示しました。この展示は物議を醸し、疑問の声も上がりましたが、最終的には収まりました。そして翌年には森村泰昌さんを招待しました。森村さんは代表作を展示しただけでなく、若手ライブバンドと共演してくださったのは、本当にすばらしい経験でした。こうして、あまり予算はないけれど、アーティスト参画型の実験室のような役割を担うようになりました。
第1回の「越後妻有トリエンナーレ 大地の芸術祭」のときに、マリナ・アブラモヴィッチさんにお会いしたのですが、私は「お金はないけど来てくれませんか?」と彼女に尋ねました。彼女は「いいわ、交渉しましょう。作品の代償として私にドリアンをくれるっていうことでいい?」と言いました。「ドリアン、知ってる?ドリアンはとてもおいしいけど匂いが強いの。毎朝ドリアンと豆乳をください」と。私は「問題ありません、用意します」と答えました。そして、彼女は小さな実験室で美しいパフォーマンスを行いました。こうして私たちは少しずつ活動を広げていきました。1992年以降の重要な数年間を経て、1996年、私はニューヨークで大規模な展覧会を手がけるよう招かれました。展覧会タイトルは「Traditions/Tensions: Contemporary Art in Asia」で、タイ、フィリピン、インドネシア、韓国、インドからアーティストを選び、アジア・ソサエティ、クイーンズ・ミュージアムとグレイ・アート・ギャラリーで展示を行いました。
アジアの現代美術をニューヨークの観客に紹介するという意味では大きな一歩だったと思います。成功したとは言えませんでしたが、何かを行うことに恐れを抱いてはなりません。「成功しなかった」というのは、ニューヨークの批評家たちの反応が肯定的ではなかったという意味です。ニューヨーク・タイムズに「これが現代アジア美術なのか?」と書かれました。「なかには良い作品もあるけれど、アーティストの名前が長すぎる」といった意見もあり、ニューヨークの観客にとってはそれ自体が"教育"のプロセスであったわけです。展覧会はその後バンクーバー、パースへと巡回し、最終的には2年半後に台北での展示にたどり着きました。巡回する過程で人々の関心はどんどん高まっていき、「この展覧会には何かある。何かカリキュラムも作れるし、研究の対象になる」といった声が上がっていきました。この展覧会が私の出発点であり、そこから一気に動き始め、多くの人々や機関が現代アジア美術に関心を寄せるようになりました。
帆足:
アピナンさんは、予算の少ないなかで、日本にさまざまなかたちで関わって調査された、そして、ニューヨークでの展覧会評は必ずしも好意的ではなかったけれども、1992年から96年にかけて実践的なことに費やした時間は、アジアの美術をニューヨークに紹介するうえで必要なものだったというお話でした。スハーニャさんからも、なにかありますか?
ラフェル:
1993年に開催したアジア・パシフィック・トリエンナーレの観客数は30,000人でした。当時としては多いと考えられていましたが、それでもまだ小規模でした。私が先ほど言い忘れたのは、オーストラリアがこのプロジェクトに取り組むことを決めた主な理由のひとつは、「私たちは何者なのか?」という問いに向き合うことだったという点です。つまり、オーストラリア社会を構成する大きなディアスポラ(他国からの移住者)――ベトナム系、韓国系、インド系、中国系、そして太平洋諸島系の人々がいます。彼らもまたオーストラリア人なのです。ですから、オーストラリアの中にある「私たちとは誰か?」という問いを認識することは、プロジェクトの重要な表現のひとつだったのです。
私はアピナンさんが言われた「アート教育」に関することは、重要な指摘だと思います。アート教育とは、美術大学などでアーティストになるために学ぶ教育もありますが、文化機関が観客に対して「いま自分たちは何を見ているのか」、その背後にある歴史、地域の歴史、地域間の歴史を伝えていく教育も必要です。そうした歴史は、必ずしもこれまで教えられてきたわけではありません。多くの場合、学ぶのはヨーロッパや北米の歴史です。私たち自身の歴史について、ようやく「見る」時が来たのです。そしてもう一つ重要なこととして言いたいのは、国際交流基金の役割です。彼らはこの地域内の知識を広げるうえで重要な支援を行ってくれました。南條史生さんや三木あき子さんといったキーパーソンをオーストラリアへつなぎ、またさまざまな人々を日本へとつなぐことにも貢献してくれました。
帆足:
「アート教育」についてのお話と、国際交流基金のようなそれぞれの現場で働いている人たちがつながり、ネットワークができるような仕組みや仕掛けをつくる文化機関があることによって出会いの機会がひろがるというお話でした。90年代、アジアの現代美術がどういうものかがまだ定義されていなかったものの、オーストラリアでは、アジア系の移住者が増えたことで、国内ではアジアへの関心が高まっていった時代でもありました。90年代を日本で、2000年代以降はパレ・ド・トーキョーという現場にいらっしゃった三木さんは、当時、アジア現代美術についてどのように考えていらっしゃいましたか?
三木:
アピナンさんやスハーニャさんのお話は、まさに90年代のお話でした。大切なのは、アピナンさんがおっしゃったように、はじめはあまりポジティブに捉えられていないとしても長期的に考え、教育的な意味で欧米社会にアジアの現代アートを紹介していったことだと思います。そして、スハーニャさんのお話にあったように国際交流基金のアジアセンターやクイーンズランド州立美術館を中心とするアジア・パシフィック・トリエンナーレのように、組織的に研究や教育のネットワークをつくるという動きと、草の根運動的にアーティストやキュレーターが中心となって進めるという両方の動きが90年代にはあったということが重要だと思います。
一方で先ほど私がお話ししたように、90年代のアジアの現代アートに対する見方というのは、日本においてはアジア美術ブームというような内輪だけで盛り上がっているような感じがあったかもしれません。しかし、それがあったからこそ2000年代以降新しい世代のキュレーターがアジアの現代美術に高い関心を持つようになっていったということもあるように思います。たとえば、パレ・ド・トーキョーの初代ディレクターのジェローム・サンス、ニコラ・ブリオー。先ほどお話したアジアの都市のエネルギーをテーマにした「Cities on the Move」という展覧会を企画したハンス・ウルリッヒ・オブリストら次世代のキュレーターたちです。パリのパレ・ド・トーキョーは、フランスの文化省の取り組みですが、グローバル化していく現代アートの視点において、自分たちの身の回りのアートだけを見ていてはだめだ、より広い視点でアジアやアフリカなどの非西洋の美術にも目を向ける必要があると考え始めました。私はアジアのアーティストとの関わりが強いということでパレ・ド・トーキョーに入りましたが、いろいろな地域とのネットワークをもつキュレーターの存在がフランスにおいても必要になっていったのです。
ヨーロッパの視点から見ると、社会的な背景として冷戦構造が終わり、都市の競争が激しくなっていく時代でした。ベルリンやイスタンブールといった都市の力が強くなっていきました。90年代のパリは、昔は活発だったけど、今の現代アート状況は今一つ魅力がない、と言われてしまうような、そういう時代でした。いかに都市としての魅力を生み出していくかということで、欧米だけのアートに目を向けるのではない、グローバルな視点をもつ次世代のキュレーターが出てきたというのは大きいと思います。パレ・ド・トーキョーにおいてもタイのアーティスト、ナウィン・ラワンチャイクンらの展覧会を開催しましたし、90年代から2000年代にかけては、国際的な現代アート界にアジアのアーティストがあたりまえに登場するようになった重要な転機だったと思います。
帆足:
オーストラリアにおいてはアジア系の住民が増えているということもありますが、アジア・太平洋というようにアジアを「面」としてとらえる視点について、スハーニャさんはキュレーターとしてどのように考えられていたのでしょうか?
ラフェル:
私たちがトリエンナーレを始めた当初は、ほとんど人に知られていませんでした。1993年、1996年、1999年のトリエンナーレでは、「アドバイザー」と「共同キュレーター」というキュレーション体制を採用しました。アピナンさんや三木さんは、私たちの共同キュレーターでした。それぞれの地域について熟知している人を招待することは重要なことでした。なぜなら、自分に知識がないならば「尋ねる」しかないからです。1999年にはこの体制の輪はとても大きくなっていました。私たちはキュレーターたちをアーティストのようにとらえており、たしか共同キュレーターが80人、アーティストが82人という規模になっていたと思います。クイーンズランド州立美術館のキュレーション体制については、かなりの批判もありましたが、この取り組みがもたらした功績はネットワークの構築にあります。それは強い結びつきをもったコミュニティとなり、携わった人びとはクイーンズランド州立美術館を離れたあとでさえ、完全に「離れる」ことはありませんでした。現在も、以前のような公式な形ではなくても、彼らは助言を続けてくれています。つまり美術館は「対話の場」となり、地域間のつながりを築くためのフォーラムとなったのです。
このネットワーク化された人々のグループは、現場で何が起きているのかを美術館が理解するうえでも役立っていました。トリエンナーレという形式であったため、美術館内に専門家チームを育てることができました。私自身もその一人であり、共同キュレーターとしての活動を通じて専門性を高めていきました。私たちは3年ごと、そのうちの1年間はリサーチに費やすというサイクルで動いていました。これは美術館にとっても重要な「還元」のプロセスでした。私たちは1993年に「コレクションを始める」という大胆な決断をしました。「誰も知らないアートを、なぜコレクションにするのか?コレクションするだけの価値があるのか?本当におもしろいのか?」という疑念もないわけではありませんでしたが、美術館はこの取り組みを重要なものと信じて投資しました。その結果として、今では誰もが知っている重要なアーティストたち、例えば村上隆などの作品を、彼らがまだ若く、キャリアの初期段階にあったときに収蔵することができました。これは三木さんの協力によって実現したものです。同館はまた、蔡國強の火薬絵画を初めて収蔵した機関でもあります。この作品の保存修復に関するレポートを書いたことを覚えています。あるヨーロッパの美術館が蔡さんの火薬絵画に興味を持っていたのですが、「保存できない」と言われたのです。火薬絵画は、火薬を爆発させて支持体に描くものであり、時間とともに劣化すると考えられていました。私は蔡さんと一緒にレポートを書き、さらにそのヨーロッパの美術館に「大丈夫です、私たちはすでにこうした作品を収蔵しています」と伝えました。このようにしてクイーンズランド州立美術館の限られた予算の中で、現在では想像もできないほど高価値な作品を収集することができたのです。
クイーンズランド州立美術館は、トリエンナーレと収蔵活動を同時に行う機関であること、3年ごとに定期的に展覧会が開催され、かつ専門家たちの継続的なアドバイスを受けられたことは、今振り返ってみても「理想的な状況」だったと言えます。もう一つ重要なのは、アドバイザーたちの顔ぶれが実に多様だったという点です。全員がキュレーターだったわけではなく、建築家や人類学者、映画制作者もいました。職業は関係なく、大切だったのは私たちがプロジェクトを検討している地域を理解し、深く関わっている人たちであることでした。
クイーンズランド州立美術館には「時間をかけることができる」という強みもありました。第7回APTで、パプアニューギニアにおいて大きなプロジェクトを行いましたが、実現するまでには5年かかりました。3年というトリエンナーレのリズムに縛られる必要はなく、2年延長することができました。なぜなら、次のトリエンナーレが制度的に担保されていたからです。同時に、私たちはとても機敏でなければなりませんでした。アピナンさんが少しのドリアンでなんとかなったと言っていたように、私たちはあるコミュニティに「豚」を贈る必要がありました。それはコミュニケーションの一環であり、「美術館とは何か」、そもそも美術館という概念が存在しない地域社会と共に考える時間でもありました。彼らとの「共通の地平」を見つけなければなりませんでした。そして、話し合いの中で「スピリット(精霊)」という言葉に助けられました。つまり、美術館とは「精霊が宿る家」であるという考え方を示し、これはあなたがたの「スピリット」の考えにも通じる、というように説明しました。
そして、ここで話は直島へ戻ります。ベネッセが提唱する「ウェルビーイング=よく生きる」という考え方は、アートを通じて人々に文化がもたらすものについての話だからです。そして、どこでその文化に出合ったとしても、また、たとえ共通の言語がなくても、人々の関係性は、その「交流」を成立させることができます。
帆足:
スハーニャさんのお話は、APTも最初は雲をつかむような思いで始めて、多様なプロフェッショナルの人たちに関わってもらうことによって、だんだんとつくっていったというプロセスがあったということ、美術館とかいう言葉があまり定着していない地域において新しい地平線を開くような仕事をされてきたという時代があってこそ今があるのだと思います。
「トランスカルチャー」展に戻りますが、ヴェネツィア・ビエンナーレという美術の中心、国別に「競い合う」ことが前提であるところで、「トランスカルチャー」というコンセプトから当時受け取ったことなど、アピナンさん、お話しいただけますか?また、その提案の背景等について、三木さんからもお願いいます。
ポーサヤーナン:
先ほども少し触れましたが、「トランスナショナル」が"国境を越えた"と訳されるように、「トランス」には「越える」という意味が含まれます。「トランスカルチャー」という言葉そのものは英語にはありませんが、「トランスカルチュラル」は、"すべての文化に共通の"という意味です。あえて「トランスカルチャー」とすることで、「文化のるつぼ」といったことも含意されていたのだと思います。ヴェネツィアは、まさにそうしたトランスカルチャーに満ちた場所です。かつてのヴェネツィアは、商人たち、外国人たち、信仰を持つ人々――それがイスラム教徒であれ、カトリックであれ――が集い、出会い、交流する場所でした。イスタンブールを中心として多くの地域とつながっていたのです。ですから、ビエンナーレのあり方を模索していた時期に、ヴェネツィアという都市名を冠することは適切なことでした。しかし、何十年もの間「持てるもの(大国)」と「持たざるもの(それ以外)」という構造にとらわれていました。「持てるもの」とはイギリス、フランス、ドイツなどであり、1895年の第1回ヴェネツィア・ビエンナーレのときからジャルディーニに壮大なパビリオンを持っていました。ヨーロッパ諸国は当初から自国のパビリオンを建てることができるように計画されていて、それはヴェネツィア・ビエンナーレのDNAとして「トランスカルチャー」展の頃まで続いていました。そこにマルコ・ポーロの物語を「トランスカルチャー」という概念として登場させたのが「トランスカルチャー」展でした。マルコ・ポーロはヴェネツィア人で、中国に渡り、多くのものを持ち帰った、あるいは、持ち帰らなかった――文化の流れというアイデアは、ヴェネツィア・ビエンナーレの構造そのものに対する問いかけとなったのです。選ばれた他のアーティストたちもまた同様に、展示のあり方や領土的な視点に対して疑問を投げかけていました。彼らは当時まだ無名でしたが、熱意と大胆さを持っていました。若いアーティストを起用すること、そしてグランド・カナルに「ジャングル」を出現させたこと、あのようなことはもう二度とできません。本当に挑戦的な展覧会でした。
三木:
ありがとうございます。実は「トランスカルチャー」展が開催された1995年は、ヴェネツィア・ビエンナーレの100周年を祝う回でした。一方、福武書店にとっては創立40周年にあたる年で、福武書店からベネッセコーポレーションへと社名を変更した年でもありました。「benesse=よく生きる」というフィロソフィーブランドを掲げ、アートを通じて離島から世界に発信するという福武總一郎名誉理事長の強い意志によってヴェネツィア・ビエンナーレで展覧会を行うことになったことは先ほどお話しした通りです。ヴェネツィアという場がもつ意味として重要だった点は、ヴェネツィアと直島は海でつながっているということです。土地でつながっているのではなく、海の繋がりという異なる視点を出すとは、従来とは異なる時代に対するオルタナティブな視点や生き方を考える必要を象徴的に示しており、ヴェネツィアに決まったということがあったと思います。
「トランスカルチャー」というタイトルの背景は、先ほども少しお話ししたように、90年代というのは、冷戦構造が終結し、開かれていった時代で、コミュニケーションがとれなかったところと、つながることができるようになり始めた時代でした。もう一つ大きなことはデジタル革命です。「トランスカルチャー」展の準備をしているときに、初めてEメールを使ったことを覚えています。それまではほとんどファックスでのやりとりだったのが、インターネットではないにしろ、コミュニケーションの方法が明らかに変わりつつありました。冷戦構造時代の反省を踏まえて、壁をつくるのではなくつながることが重要であるということが、その当時、共有されていたことではないかと思います。もう一つ付け加えると、「トランスカルチャー」というのは国や民族だけのことではなく、今はLGBTQと表現されますが、ジェンダーの問題等も含まれていました。マイノリティーグループの存在を認めるということも「トランスカルチャー」展のコンセプトの背景にありました。
帆足:
今回のキーワードとして「30年」がありますが、日本では、経済は停滞し、マイナス面にも転じたことから「失われた30年」というようなことがよく言われます。一方、アジアに目を向けると、97年にIMFの金融危機はありましたが、いわゆるグローバル経済という波に乗り、経済的に発展したバンコクや香港は、はるかに日本よりも勢いがあるという印象があります。
ベネッセアートサイト直島は、この30年間で30施設以上の多くの施設をゆっくりと着実に発展させることができたというのは、直島という土地柄に依るところもあると思います。今後、直島のアートプロジェクトが、東南アジアや東アジアの視点からどういうふうに発展すると思われるのか、伺ってみたいと思います。
ラフェル:
私は、その「DNA」はすでにここ直島にあると思います。これからの30年を見据えると、気候変動、エコロジー、環境問題は明らかに重要なことであり、それが直島のプロジェクトの中にすでに組み込まれているからです。ですので、アジアの他の地域にいる私たちは、直島のプロジェクトから持続可能性とはどのようなことか、環境やコミュニティをどう維持していくのか等々、学べることがたくさんあります。そして、私たちのような文化機関に関わる者はこれらが世界で喫緊の課題であり、目の前にある経済的、政治的、社会的な緊張とも結びついていることに注意を向けなければなりません。戦争もまたその破綻の帰結であり、人々はその対応を切実に求めています。そして、最終的には、自分が住んでいる場所、自分の家、自分の地域に立ち返ることが重要だと思います。「私たちは互いをもっとケアし合う必要がある」ということを私たちはより深く考えるべきです。私としてはお互いのつながりを失うのは避けたいので、維持する方法として、常にそのことについて話し合う必要があると考えています。
帆足:
確かに、直島にはエコロジー、自然との共生や持続可能性、この島での生活の在り方、そこにアートがある環境は、既に先を見据えているような気がします。アピナンさん、バンコクでは環境問題はどのように考えられていますか?
ポーサヤーナン:
2004年、タイ南部のアンダマン海沿岸部で大きな津波(スマトラ島沖地震)が起きました。多くの島々は同じような構造であるはずなのに、タイの人々は「津波」がどういったものか理解が全くなく、その言葉の意味すら知りませんでした。12月26日、津波が突然タイ南部を襲い、2,000人以上の命を奪いました。そして人々は気づいたのです。自然こそが最も強大な力を持っているということに。その1年後、この出来事を追悼するために、私たちはその地域のダムで多くのアートプロジェクトを行いました。その中のひとつに、マリナ・アブラモヴィッチを再び招き、パフォーマンスを行ってもらいました。彼女は「Sea Punishing」という作品をパフォーマンスし、映像として記録しました。「Sea Punishing」はギリシャ神話に基づいています。海が怒り、戦いを挑む。陸にまで水を溢れさせ、そこに息づくすべての命を奪う。嵐や津波が静まったとき、神は再び海を罰する、そうした物語です。
この「繰り返される罰」は、人間の姿のアナロジーでもあります。人間は自然には決して勝てません。30年の間に、どれだけの津波が起こると思いますか?人はトラウマと危険の中に生きています。環境の出来事とともに生きています。ところが私たちの多くは、それに無自覚で、何が起きているのかわからないまま、いざ起きたときには備えがない。私は最初に申しました、直島にいらっしゃる方たちがうらやましい、と。自然の中で生き、常に「明日、あるいは5分後に何かが起こるかもしれない」と意識して暮らしていることがうらやましいのです。「神は自分を罰しないだろう」と思っている人たちがいる一方、自分たちの家を地震の揺れに耐えられるように建て、何かが起きたときにはどうするかを学び、準備しています。それはつまり「ベネッセ=よく生きる」ということです。
30年後にはこの地域に60もの美術館や関連機関があるかもしれません。だからこそ、誰が次の担い手になるのかを考える必要があります。若い世代の存在が光をつなぎ続けなければなりません。どういう話かというと、若い人たちが仕事のために戻ってきて、この伝統ある場所を継承し、必要なケア、維持管理を続けられるようにする、ということです。そこに仕事があれば、快適に暮らせる場所ではなくなるかもしれない都会に若者が出て行かなくてもよくなるかもしれません。だからこそ、30年後を見据えて今から準備をする必要があります。新しい世代を育て、継続していくことは簡単なことではありません。30の美術館があれば、それぞれの部屋や空間に特有のケアが必要です。ANDO MUSEUMでは独自のケアがあり、豊島にはまた別の形があります。ベネッセとは「よく生きること」であり、「よくケアすること」だと思います。そう考えれば、私たちがやるべきことは実はシンプルだとわかります。ありがとうございました。
帆足:
日本、そして直島は、自然と共生し、アートについても一定の地位を築いている、その一方で、30年後を見据えて、次世代をどう育てるか。美術館をどう維持していくかを考える人たちを共につくっていくことが必要なのではないかということをご提示いただきました。三木さん、まとめのお話をいただけますか。
三木:
30年後を見据えて、ということですが、福武名誉理事長が言われるのは300年後を見据えてなんです。直島新美術館をつくる際も300年もつ建物を、ということをおっしゃっていました。安藤忠雄さんも使う素材などを考慮してくださいました。このことが何を意味するかというと、「人間は忘れやすい生き物」ということだと思います。生きていくために忘れることも必要なときはありますが、しかしながら、同じ過ちを繰り返さないために忘れないこと、思い出していくこと、精神を継承していくことが大切だということも直島新美術館設立の理由のひとつにあるのだと思います。福武名誉理事長自身は、直島新美術館を「集大成」と語られることも多く、直島で最初に始めた頃の思いを常に思い出すために直島新美術館をつくったということもあったのではないかと私は思っています。彼が、当時の離島のおかれた状況に怒りを感じたこと、そして社会に対する怒りを作品によって表現するアーティストの批評精神のようなものを通して状況を変えようとしたことが原点にあり、その精神が、継承されていく装置として直島新美術館が残っていくことが望ましいと考えています。
直島の先見性についてのお話も出ましたが、アピナンさんが企画したヴェネツィアでの展覧会は「トランスカルチャー」展にインスパイアされたとおっしゃっていましたし、バンコク・アート・ビエンナーレと、もうひとつタイランド・ビエンナーレというのがあるのですが、開催地はタイのいろいろな地域を巡回します。クラビから始まり、チェンライ、2026年はプーケットで開催されますが、このビエンナーレは瀬戸内国際芸術祭がプロトタイプと聞いています。
直島という場所が観光地として有名であるということではなく、ここでの活動によってまかれた種が、アジアのさまざまな都市に伝播し、影響力をもっているということが本日、確認できたように思います。また、直島新美術館はアジアの現代アートを中心に展示することになったわけですが、これも突然始めたわけではなく、長きにわたる専門家同士のネットワークがあってこそのものです。最も大きかったは、2016年にベネッセ賞の授与をアジアにシフトしたことで、ベネッセ賞の審査員にはスハーニャさんにも入っていただいています。直島新美術館開館の背景にある、30年もの時間を振り返ることは、2時間では到底無理ですが、今日はそのとっかかりということで、今後も様々な場所で継続的に検証することで、次の30年の歩み、そして300年へと学びを活かしていければと願うところです。
登壇者プロフィール
アピナン・ポーサヤーナン
(バンコク・アート・ビエンナーレ最高責任者兼芸術監督)
Apinan Poshyananda
アピナン・ポーサヤーナン
(バンコク・アート・ビエンナーレ最高責任者兼芸術監督)
Apinan Poshyananda
タイ文化省「現代美術と文化」事務局長、文化振興部局長、常任秘書。タイのアーティストのためのシルパトーン賞とアートファンドを創設。ヴェネツィア・ビエンナーレ(2003、2005、2007年)のタイ館、アジア・パシフィック・トリエンナーレ(1993、1996年)などの国際展など多くの企画を手掛ける。ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ナショナル・ギャラリー・シンガポールの委員会メンバーを歴任。タイ・ビバレッジ株式会社のアドバイザー、ワン・バンコクの芸術文化委員会のメンバーも務める。
スハーニャ・ラフェル
(M+館長)
Suhanya Raffel
スハーニャ・ラフェル
(M+館長)
Suhanya Raffel
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で副館長兼コレクション担当ディレクター(2013-2016年)、クイーンズランド州立美術館 /近代美術館では館長代理などを歴任(1994-2013年)。 アジア太平洋地域の現代美術コレクションの構築に尽力し、2002年よりアジア・パシフィック・トリエンナーレを主導。国際美術館会議(CIMAM)で2016年から理事、2023年より会長に就任。
三木あき子
(直島新美術館館長/ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター)
Miki Akiko
三木あき子
(直島新美術館館長/ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター)
Miki Akiko
パレ・ド・トーキョー(パリ)チーフ&シニア・キュレーター(2000-2014年)、ヨコハマトリエンナーレ(2011年 アーティスティックディレクター、2017年コ・ディレクター)等を歴任。台北ビエンナーレ(1998年)、バンコク・アート・ビエンナーレ(2024年)等の国際展や、バービカン・アート・ギャラリー(ロンドン)、台北市立美術館、韓国国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館等世界各地の主要美術館にて多くの企画を手掛ける。
モデレーター
帆足亜紀
(横浜美術館国際グループ兼学芸グループ グループ長、横浜トリエンナーレ組織委員会総合ディレクター補佐)
Hoashi Aki
モデレーター
帆足亜紀
(横浜美術館国際グループ兼学芸グループ グループ長、横浜トリエンナーレ組織委員会総合ディレクター補佐)
Hoashi Aki
シティ大学(ロンドン)にて博物館・美術館運営修士号取得後、1996年よりフリーのコーディネーターとして、国際交流基金のアジア地域の美術交流事(1997-2010年)や茨城県のアーティスト・イン・レジデンスの運営(2003-2007年)などに携わる。2010年より横浜トリエンナーレ組織委員会事務局に入り、第4回(2011年)以降の横浜トリエンナーレに携わる。2016年より横浜美術館所属となり、現在に至る。